生活不活発病だって?

旅行記はちょっと原稿を書き貯めないと・・・なんって、それよりちょっと気になることが近頃あります。それは、私が神学者にして論理学者のオッカムの・・・例のオッカムの剃刀の信奉者であるためなんです。

例の、観察された事実や、論理的自明性、神的啓示はちょっと信じませんが、などの十分な根拠がないものについては、どんな命題も主張してはならない・・・こんな奴ですね。オッカムの剃刀よりは、「思考節約の原理」の方が名称としては好きなんですがね。

とにかく、あまり物事に名前をつけて主張するな!どうせあまり新奇性などなく、どうせ焼き直しだろうなんってことなんでしょう。

近頃、ニュースを珍しく眺めていたら、災害にあって避難生活をしているとき、多くの人に活動を抑制しているかのように見られる行動が観察されたとか。それを名付けてか、それとも前々から名称としてある名詞が与えられていたような?

私だと、こんなことは面倒ですから、環境が変化したために、状況をよく見極めるまで、行動を慎むという単純な防衛機制のように見られるのですが・・・しかし、名称を特別に与えているような報道がありました。

まあ、私の主たる関心事ではないので、細かなことは聞き逃したか報道されなかったのかわかりませんが、別に旧来的な、自分の身を守るための常識的な行動のように見受けられるのですが・・・まあ、環境による抑圧として扱っていて、これは何らかの治療行為を行わない限り、回復不能になるかのような説明でもついていたのか?ちょっと聞き逃しました。

ううう・・・そうだ!生活不活病だ!確か・・・

まあ、このキーワードで調べれば、色々な情報が得られるのでしょうが、私の報道の第一印象から、ちょっとこの生活不活発病なるものを考えてみましょう。

基本的には、先ほど述べたように、防衛機制ではないかと思うのですが・・・一般的な防衛機制の意味内容は、精神分析で使われる用語で、人格は意識される自我だけから作られているのではなく、無意識の超自我やイドなどと呼ばれているものから成り立っているとされ、超自我は道徳的な命令を押しつけて、無意識のうちに真っ当な人生を歩ませようとする奴ですね。それに対してイドは隠された快楽や欲望を追及するように歩ませる奴などが、自分自身が意識している部分の外側に存在しているというわけです。

ここでは、意識される自我と、この無意識の部分との挟間での葛藤が存在したときに、うまく調整が利くのであれば問題はないのですが、互いに背反し、合理的な適応に失敗したときに、自我が不合理な適応手段を選択していくことを言うようです。例としては逃避などの欺瞞的な手段ですね。

つまり、災害に会った際に、その事実を認めないために・・・パーティーを開いてみるとか、または災害を認めないようにするために、目をつぶるとか・・・まあ、色々とあると思われます。

いずれにせよ、このような抑圧は、所詮、一時しのぎで、その元になる状況は変わりません。したがって新たな機制が必要になってくる・・・

従って、無関心を装い、新たな行動を起こすことを厭う方向へ走るのではないかと思われます。まあ、私だって、ちょっと資金が足りなくなってきそうな予感がするとき、動かず、手持ちのものを使って遊ぶことを考えるのと同じではないかと思うわけです。

遊びたい、何かを作りたい、遊ぶのにも何かを作るのにも資金が必要、でも遊びたい・・・最も簡単な機制が、動かない、新しいことを考えない・・・今は、そういった状況ではないという判断に基づいて規制が働きます。

結局のところ、人間の活動は、外的な条件で様々な抑制が働いていることを、新たな言葉を生み出すことによって、簡便な分類をおこなっているだけのような気もします。

しかし、実際に一つの学問領域と認められていて、単なるマスコミのセンセーショナルな行動に乗せられて存在するものではなく、多くの人に、そういった新しい用語が必要であることを納得させられるのか?ちょっと調べてみたい気もします。

調べ始めると、泥沼に陥ることは必定ですから、ちょっと調べるのは止めにしようという、防衛機制が働くというものです。まあ、この防衛機制という言葉も、ちょっと輪郭が不明瞭な言葉ですから、私の捉え方に問題があるかもしれませんが・・・まあ、ちょっと頭を使うのには面白い題材でした。

とにかく、思考というのは時間つぶしの材料には悪くないですね。通常かかる食費以外には、それほど新たな資源を必要としませんからね。

とりあえずの備忘録としてこのぐらい書いておけば、近いうちに調べる機会もあるでしょう。
(2008.03.28)

  

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