授業でノートを取ることは受動的な学習か?

ネット上で遊んでいたら不思議な記述を見出しました。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
板書(ばんしょ)とは、近代の学校教育において学校の教師が学習事項を黒板に書くことである。児童・生徒・学生は、それを受動的に書き写すことになる。
小学校では、板書はあまり行われない。児童にとって、書き写す作業が、負担だからである。

う・・・何だこれ?受動的に書き写すことである・・・確かに見かけは受動的に見えますが、知識・経験の伝授法としては非常に優れていると思いますが・・・そもそも、勉強は受動を以って能動と為すのでは?なんってね。

お勉強と、研究の違いですね。ちょっと全面的に書き換えてやろうかとも思いましたが、そうも考えられますから悪くないでしょう・・・しかし、これを書いた人はよほど文章を書き写すことが嫌いで、ものを覚えることが嫌で、自分が直接体験したことの中から見出した真実を大切にしている人なんでしょうか?

それとも、冗談で書いたか・・・

学習事項を覚えるためには?やはり、旧来的な読んで書くという作業が必要でしょう。人間は忘れますから、忘れたときに思い出すためのノートが必要でしょう。近頃では、読んで書くという作業は軽視されています。理由は・・・多分、児童に書き写すという大きな負担を与える作業を強要しないからでしょうね。

書き写すことは、ある意味習慣であり、まとめる際にはどのような文体を使えばよいのか?それを学ぶ場であると思われますが・・・

何かを、書き写す場合、まず文章を見てそれを、頭の中に一時記憶として収め、それを頼りに書き写すことが一般です。そして、正しくかけているか確認するでしょう。ここで、文字のチェックや送り仮名、平仄があっているか?抜けはないかを批判的に見るはずです。

これが、板書をする人間にとっては非常に怖い部分です。塾の教師をやっていて、はじめの1・2年はなかなか板書ができませんでしたね。先生!字が違う!なんか変!文章おかしくない?なんっていわれますからね。字が汚い・・・それでも字・・・こうまでは言われませんがね。

先生!みにくい・・・先生は醜くな〜い!お馬鹿な話ですがね。しかし、小4あたりから授業では板書が常識と、きちんと書かせておけば、小6頃にはエキスパートになりますね。書く内容を口頭で述べ、書き始めると、すでに半分書いてしまっている生徒がいたり・・・先生!言った事と違うこと書いていま〜す・・・なんって言われたり。意味上同じ!とかね。こういった生徒は非常に言語能力が高いものです。

書きながら、批判的に推敲してくれたり・・・よって、教師もまじめに勉強していないと、板書できません。親がノートチェックをしたときに、うちの子先生の板書をおかしく写してくるのですが・・・先生どうです?なんって見せられたノートが、板書をきちんと再現されていたら・・・

文章として記述されたものは、言い訳が利きませんからね・・・これは非常に恐ろしいことです。したがって、それを避けるためには、板書しない!サブノートに穴埋め形式授業になるのは必定・・・

板書の良いことは、何か突発的な質問があっても、それが良い質問でよい解説をしておかなければならない場合に有効です。サブノート形式のプリント学習では・・・生徒は作業をすると言う能動?的な活動をしますが・・・予定外の作業をさせるわけには行きません。

教師の方が、サブノートなどの決定教材によって拘束され、能動的な授業はできません。まあ、教師は楽ですが・・・穴埋めのための単語を黒板に書いて、それを生徒に埋めさせれば良いのですからね。

私がかつて勤めた塾などは、チョークと黒板消しだけ持って授業に行く先生がいましたっけ・・・多分、テキストも暗記していたのでしょう。きちんと1時眼を板書して解説してくるわけですからね。十分な予習が教師にあればそういったことも可能です。

近頃は、学生バイトの教師が多くて、そういった名人芸的な授業をする教師もほとんどいなくなりましたがね・・・

私の場合・・・まじめにノートを取るようになったのは高校でしたっけ。それまでは遊んでいましたからね。大学での講義は、まだ、サブノート時代は到来していなかったようです。そこでは・・・

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大学では、板書はほとんど行われない。講義は学生が受動的な姿勢で臨むものではなく、主体的に学習するためのヒントに過ぎないと考えられるためである。ただし、理系の講義では、図解が必要なため、文系の講義よりは板書が行われる。

今では、かなり漫画的な授業が行われているようです?・・・私の大学時代のノートがどこかにあるかもしれません・・・講義で取ったノートには?マークや本当か?なんって書いた記憶があります。講義の内容を理解し、能動的な活動をした跡ではないかと思うのですが・・・主体的な学習ってなんだろう?図書館で本を開いて学習してもそれは、講義を聴き板書を写すのとどのような違いがあるのだろうか?

講義によって、このような考え方もある!という提示なしに、自ら何かを調べることがあるのだろうか?他人の意見を聞くことで・・・たとえそれが間違っていても、何かが引っかかり主体的な自らの研究のテーマとしてそれが成り立っていくこともあります。

学問は、基本的に既存の考え方を受け入れ守る事から始まります。そして、そこに疑問を感じ、考究し従来の考え方、自分の学んだものを基本として、それから離れ独自の境地に至ることを意味するのでは?守・破・離・・・確か川上不白でしたっけ・・・そのうち、きちんと「不白筆記」でも読むか・・・しかし、刊本は在庫切れ・・・その他の川上不白関連の著作は高価すぎて・・・図書館へ行くしかないな・・・

能動的な勉強は講義と講義録から始まるということのような気がしますね。

そういえば・・・板書をせずに、ノートを読む先生がいて・・・それを書き写してテストに望むなんって奴もありましたね。この、ノートが難物でした。何しろ予習していないと、ひらがなばかりのノートになり、カタカナ言葉は正しくつづられていなかったり・・・あとで参考文献を当たってチェックしなければならないわけです。テストで漢字を違う表記に間違えて赤線が引いてあったことがありましたっけ・・・

つまり、記述能力はその人間の、知識の裾野の広さで変化する否応なしに認識させられたというわけです。

まあ、板書された内容を書き写すにしても、予習があるかないか、復習をするかしないかを考えると大きな差になることは、十分予想できることですね。

ほかには、何を間違えたか、第一外国語をドイツ語でとったので・・・ドイツ語学科と同じで、人数が少ないために進度が速く、ノートの貸し出しで昼食が浮いたり・・・能力は身を助けますね。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中学校・高等学校では、盛んに板書が行われる。板書を好む教師は、板書を部・編・章・節などに分け、重要な箇所は赤や黄色などの色付きのチョークで板書することが多い。

しかし、中学校・高等学校の教師の誰もが板書を好むわけではなく、一人喋りを好む教師や、指名を好む教師は、最小限の事項しか板書しない。

う・・・やはり、好む教師は、書くことに自信があり。書かない教師は板書に自信がないのでしょうね。習うのならどちらが良いか?書き写すことも能力の一部、人間が書き言葉を持ったため、口承ではなく、時代を超えて物事を直接知ることができるわけですからね。書かれたことを写せば書くことが、話を聞いて話せば話すことが上手くなるわけですからね。目には目を、歯には歯をですね。

因果は巡る・・・お勉強もまた同じですかね。

2007.08.01

  

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