お勉強は、やはり言語が決め手!

算数を教えるには、やはり低学年のうちに算数の考え方を表す言葉を、しっかりと日常の中で叩き込まないといけないのだと、実感します。結局のところ、解説でもそういった言葉を使って説明しているからなんですね。

ごく当たり前の、XXにYYを加える、XXとYYの和は、XXとYYの合計は、XXとYYを合わせると・・・結局のところ同義語が多いということなんでしょう。教師によって、そういった用語の使う頻度の差で、生徒の能力を十分に開発しきれない場合もあるようです。

まあ、環境の問題ということのような・・・門前の小僧、習わぬ経を読むというやつなんでしょう。そういえば、故事成語の「孟母三遷」や「孟母断機」などは真理でありますが、残念なことに忘れられつつあるような?まあ孟母断機はさすがに、機織りなどを見かけなくなった今、ちょっとイメージすることが困難ですが・・・孟母三遷も、多くの事柄が密室の中でひそかに行われる時代にはそぐわない気もしますね。

結局のところ、色々なものはあるが、その製造や思考の生まれる現場に立ち会うことが少なくなった時代が、言語面にもさまざまな影響を与えているのかもしれません。原理を知らなくても動かせる・・・運用できる・・・という時代なんでしょう。

従って、そういったことを表す言葉もまた、失われつつあるのかもしれません。門前の小僧習わぬ経を読む・・・経といっても仏典ではなく・・・そういえば、四書五経なんって・・・五経は孔子の編纂でしたっけ?お釈迦様も孔子と同じくらいの年代の人物?でしたっけ?

ちょっと確認、孔子は紀元前551-479に生きた人です。お釈迦様の入滅は前483年、前383年、前543年などの諸説があるようで・・・どうも、古い話は厄介です。

しかし、日本じゃ縄文・弥生時代の変わり目くらいの話ですから、高度な文明が花開いていたことがわかります。経はお勉強の教科書ですから・・・塾があり、試験が存在していたわけですからね。そして、いまなお学ぶということの本質は変わっておらず、通用するわけですから・・・私が何を考えようと、先人たちは同じような結論に至っていたわけです。

結局、温故知新というのは重要なことであるのでしょう。しかし、古きを訪ねて、ありゃ、知られていたことじゃん!って、びっくりするのでは進歩がないですが・・・まあ、今の状況に合わせて行えばよいということなんでしょう。

確かに、技術の進歩は、古い考えに新しい息吹を吹き込むことができます。私がこの頃展開している「とにかく計算!いっぱい計算!」も、反復練習は基礎を培う上で重要であると思っていましたが、反復練習プリントを製造するに至りませんでした。

コンピュータとデータベースというものが、それを実現させてくれたわけです。まあ、20年くらい前にも、BASICでプログラミングして作成しようとしましたが・・・困難でした。ランダムアクセスファイルをこしらえて、データベースもどきを設計して・・・こりゃ、毎回プログラムを作らなきゃいけない・・・これでは何年かかるか分からない・・・

こんなプログラマーの嘆きは、1960年代にすでに、嘆かれ、それはリレーショナルデータベースとして開花したわけですが・・・私が、ちょっとリレーショナルデータベースに触れたのは1985年ごろ、当時は・・・大型コンピュータの時代・・・パンチカードがまだ現役・・・まあ、マークシートになって鑽孔器は使わない時代でしたが・・・

そして、自前のPCで、リレーショナルデータベースを使うようになったのが、1994年ごろでしたかね?この頃は何に使ったやら?そして1998年に、リレーショナルデータベースを使った企業会計システム・テスト処理システムなどを短期間で開発・・・まあ、ある程度蓄積があったからでしょうが・・・

そして、いま、こうして学習システムの構築へと進んできたわけです。まあ、まだ夢の種はあるのですが、とりあえず、データベースシステムでの開発は、そろそろ終了したい気もしますね。

おっと、いつの間にか回顧だ・・・歳をとったのかもしれません・・・

とにかく、自然言語をコンピュータ上でうまく展開してやれば、家庭や学校・塾などでの語彙の不足を補うことも、この手の反復型のプリントでは行うことができそうです。

進学塾も良いのですが、基礎教育のためのプロジェクトもそろそろ起こす時期なのかも知れません。基礎的な言語処理のデータベースも開発しないと・・・さて、それより日々の糧を稼ぐためのプリント作成を開始しましょう。
2008.03.05

  

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