学習というやつは厄介で・・・

私がかつて教えていた塾は、開成中学に最も近い塾と呼ばれていました。物理的にも近かったですし、1998年でしたっけ?およそ100名の合格者を出しました。記憶では、公正取引委員会の調査をされても胸を張れる数は・・・98名でしたっけ?

そこの塾も今は斜陽です・・・はたして、かつての盛況を取り戻せるやら?

学習システムは、優れていました。算数教育は小4までで基本計算を完璧にさせ、小5の前半で割合までの範囲の基礎を終わらせていました。まあ、厳密には1年先取りということなんでしょうが、計算を中心として1年間基礎をみっちりやっていました。

このカリキュラムも優れていましたね。私も、ある意味この教材で、教師として学んだのかもしれません。そして、授業内容の6割を定着させるために必要なことも。

ここで、学んだことは、分数の計算は楽で、小数の計算を教えることは非常に困難であることですね。

日本には、十進数をサポートする強力な計算機が昔から存在していました。そのため、小数計算は楽であるとされているのではないかと思うのですが、計算のルールからすると、分数の方が楽で、しかも、結構いい加減な手順でも正解にたどり着くようです。それに対して、小数の計算の場合は、複雑なルールとともに、桁数の大きな計算を強いられます。

したがって、正しい手順の通りにやらないと、絶対に正解にたどり着かないということなんです。正確さの基本にあるのは、整数の四則計算ですが、基本的に入試で扱うのは3桁以上の計算になってしましますからね・・・3.14は3桁の計算です・・・

まあ、半分は慣れですね。

しかし、厄介なのは小4までの間に、小数・分数の四則計算までを理屈はともかく、全員ができていないといけないということなんです。しかも正確に・・・中学入試をするのは、小4終了時点までにできていなければならないことなんです。まあ、遅くとも小5の夏までに・・・

これ以降に、計算を練習させ、完璧にすることもできるでしょうが、年々困難になります。何しろ、小学校でできるようになっていなければならないことを中学生にやらせるなんって・・・屈辱感を与えます。

教育は、屈辱感を与えるようではいけないと思うんですね。どんなにくだらない質問であっても、真摯に聞き、真摯に答え説明し・・・わかった!ってなれば、その時点であほ!って笑ってやりましょう。わかった!って時点で、その子は「あほ」ではなくなっていますから、互いに笑うことができますからね。「阿呆」の意味がわかったときから「阿呆」ではなくなっています。そして、「阿呆」の理解から、「阿呆」にならない方法が見つかるはずです。

教師は、生徒を貶(おとし)めてはいけません、生徒を貶めることは自分を貶めることです。生徒を高めることができれば、教師も自らを高めることになりますからね。

まあ、生徒がわからないのは、教師の教え方が悪い!のでしょう・・・大勢の生徒を相手にすると、全員をわかるようにさせることは困難ですから、最大公約数的な教え方しかできませんが、わかる生徒が3分の2を超える授業をすると、わからない生徒は、毎回変動するので、全体としては、まあわかる生徒になってくるようです。人間は分からなくても、何かをちゃんと学習しますからね。

さて、私が理想とする授業・・・これが、困ったことに世間一般とはちょっとずれているようです。しかし、正しいのでは?なんって思えます。

授業を始める直前・・・騒がしい、何かやたらと教師に話しかけている、生徒同士話をして、合間に教師に数名が話しかけ、何かコメントを求め、再び生徒同士で話をする・・・教師も完全に蚊帳の外ではなく、教師としての意見を求めてくれる状態である。

授業を始める・・・新しい内容を説明開始直後から、教師の方をきちんと向いて、静かに話を聞く・・・説明の終了直前から静かなざわめきが起こる・・・それって、こういうこと?とか問わず語り的な発言が出てくる・・・満足感と開放感で教師に話しかけなければならない状態が起こってくる。ざわめき・・・ざわめきに不満を唱える者の発言・・・先生、うるさいよ・・・「黙れ!、もう一度説明する・・・」、説明の後では不満を唱える者も・・・満足感と開放感で教師に話しかけなければならない状態が起こってくる。ざわめき・・・

授業終了・・・

決して静かな授業とは言えないが、これが理想

恐怖が支配する授業ではなく、満足感がある授業でなければだめ、もちろんカリキュラムはきちんと終わり、3分の2を超える生徒が、6割を理解することが前提ですけどね。そのために、教師は生徒にあった授業をするための十分な予習が必要になるというわけです。

人が黙るとき・・・それは、沈黙を守らなければならない強制があるときと、沈黙せざる状態になるときでしょう。沈黙せざる状態には2種類あって、真剣に聞かないとダメなときと・・・黙るしかない状態の2つでしょう。

学習の中で、黙るしかない状態って・・・わからない時ですね。

騒ぐとき・・・自信を持って対抗できるとき!騒がなければ腹が収まらない状態のとき

騒がなければ腹が収まらない状況にも2種類あって・・・満足感と心からの喜びのとき、理不尽さに対して、方向性を持たない怒りの表明ですかね。

日本型の授業って・・・お行儀のよい生徒を作る作業になりますから、喜びに満ちた内容でも、静かにさせるのが常道・・・喜びに満ちた状態にできなければ・・・恐怖に支配させることになり・・・喜びを放任して騒がせる教師の後の、喜びに導けない教師は・・・悲惨です。

教師の生徒に対する接し方・・・難しいです。

ところで、友達のような先生・・・日本語の「友達のような」の意味と、欧米の「friendly」の意味の違いって重要では?お友達感覚・・・軽いですね。「friendly」普通は友愛と訳される言葉です。この差を考えることが、教育の理解につながるのでは?

  

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